ニーズとエモ
世の中は需要と供給で成り立っている。
そして時代とともに新たなニーズがどんどん生まれてそれとともに新たな仕事が生まれる。
サービス業であったりベンチャー企業というものが次々にうまれては淘汰され形を変えて生き残ったり、消えたりしていく。
それがビジネスだと思う。
それは音楽だってテレビだって映画だってお笑いだって同じことなのかもしれない。
作り手がいて受け手がいて、そこでお金が動いて成り立っている。売れるものを作る、そんな当たり前の考え方なのかもしれない。
しかしそこに疑問を感じる時がある。
最近"エモい"という言葉をよく耳にする。音楽や映画の感想でよく使われる言葉だ。おそらく英語のemotional、つまり感情的という意味からきていると思われる。
分かりそうでよく分からない言葉だ。
だいたいこの言葉が使われるのは失恋だったり、切ない、寂しいなど上手くいかないことや人間の弱い部分を表したものに多く使われている気がする。
病んでる、メンヘラなんて言葉が多く聞かれるように、今の時代どことなく生きてるだけで疲れることがたくさんある。そんな心の隙間に上手く漬け込んだ音楽たちがエモいと言われ流行る。
SNSなどで視聴者の声がすぐ届き、何を欲しているかすぐにわかるからこそ生み出す方もニーズにあったものが作れる。
エモいを求めエモいを生み出す、いわばビジネスだ。
そんなことを考えていたとき、ふと出会った曲がある。
PK shampooというバンドの神崎川という曲だ。
その中の歌詞にこんなフレーズがある。
泣くためにあるダサい映画借りて
泣いてる夜のくだらなさも
許し合おうよ、僕は許すから
何もかもを許すから
ハッとさせられた。言いたいことを言ってくれている。エモいという言葉では片付けたく無い曲だった。
エモいは現代おいて売れるために必要なスパイスなのかもしれない。しかし本来エモいという言葉だけを求めて制作しているアーティストはいないはずだ。
そこには何か作り手の深い思いがあって作られているはずだ。だからこそエモいの一言で片付けてしまうのは違うと思う。
相手が求めているものを与えて充足させるような音楽ビジネスになってしまうなら、そんなものは求めていない。
3markets[]のボーカルのカザマさんが言っていた言葉だが、
落ち込んでいる人に優しい言葉をかけるのは簡単だし気持ちがいいが、そんな共依存みたいな音楽は作りたく無い、と
作り手と受け手が同じ方向を向いて始めて作品になると思う。